子どもが自分らしく生きるために
第1回のみらいふぇすたでは、鳥海由理江(ちょうかい ゆりえ)さんを講師に迎え、お話を伺いました。
聞き手は、桜馬場中PTA・大倉聡会長です。
プロフィール
鳥海 由理江(ちょうかい ゆりえ)
長崎市樫山町生まれ。出身は三重小学校、三重中学校。
現在は長女が長崎市内の中学校に通い、現役のPTA会員でもある。
生まれて初めてわかった障害
「さぁ、この子を育てていこう!」
大倉 平成9年にご結婚されたそうですね。
鳥海 はい。子供が3人いて、長男の大樹が25歳、次男の連志が23歳、一番下の娘が14歳で長崎市内の中学校に通っています。
大倉 スーパースターの母親だから遠い存在なのかなと思っていたんですが、普通にPTA会員なんですよね。親近感を感じます(笑)。PTA活動はどんなことをやったりしていますか?
鳥海 そんな目立った活動ではなくて、一人一役で清掃活動ですとか、今年度は学校行事の係の仕事をやらせてもらいました。
大倉 では早速、連志さんが生まれた頃からのお話をうかがいたいと思います。連志さんは、障害があってお生まれになったんですね。
鳥海 右手の中指がなくて、手のひらが途中まで裂けている、中指欠損の裂手という障害になります。左手は中指と薬指と小指がなくて3本分の手のひらもありません。
大倉 誕生の様子から、お話をしていただいてよろしいですか。
鳥海 平成11年2月2日に帝王切開で生まれました。生まれてすぐに主人だけが先生に呼ばれて、障害があるという説明を受けたそうです。私はそのまま全身麻酔で眠らされて…。そういう言い方をするとあまりよくない感じに聞こえるんですが、私が連志の状態を聞いてショックを受けないようにどう伝えるか、主人とお互いの両親が話し合う時間も欲しかったんだと思います。
大倉 連志さんがお腹の中にいる時は、エコーとかで障害があることは分かっていなかったんですか?
鳥海 そうですね。3Dエコーもまだなかったので。普段の検診では赤ちゃんの心音を聞いたり、推定の体重を計るくらいのことしかしていなかったので、障害があるということは全く分かりませんでした。
大倉 由理江さんは眠っていて、起きてから聞いたんですね?
鳥海 お昼2時ぐらいから帝王切開手術で、出産直後から赤ちゃんと会うこともなく眠ったんです。目が覚めた時はもう夜で、ベッドのそばに主人だけが座っていて、障害があるということと障害の状態を聞きました。
大倉 すぐ会いたいって言ったりはしなかったんですか?
鳥海 言ったんですけど、「次の日に必ず会わせるから今日は寝てください」と看護師さんになだめられて。次の日、初めて会うことができました。
大倉 どうでしたか?
鳥海 連志と初めて会った時のことは、すごく鮮明に覚えています。前日の夜、主人から聞いた説明を一つ一つ思い出しながら、指がないってこういうことなんだ、手のひらがないってこういうことなんだ、足首が曲がって上を向いているってこういうことなんだ、と一つ一つ確認しながら見ていったのを覚えています。
大倉 想像していた姿を実際に自分の目で見て、息子さんの様子を確認することで、冷静さを取り戻していった感じでしょうか。
鳥海 初めて会ったとき私はすごく落ち着いていて、泣いたりショックを受けることもありませんでした。やっと会えた嬉しさと状態を確認できた安堵の気持ちの方が大きかったです。
大倉 障害があるということを受け止めるのに、いろんな葛藤があると思うんですよ。そういう中で、今後どうやって育てていこうかっていう覚悟みたいなものが生まれたってことでしょうか。
鳥海 覚悟と言えるかどうかはわからないですが、「この子をどう育てていこうか」と思ったのが私の最初の感情でした。
保育園の園長先生との運命的な出会い
大倉 そんな連志さんとお母さんの日々が始まっていくわけですが、連志さんが生まれて間もない頃から、大学病院に通院していたんですね。
鳥海 両手と両足に障害があったので、大学病院の整形外科と形成外科に、週に何度か通院していました。1歳7か月の長男がいたので、2人を連れて大学病院に行っていたんですが、やっぱりすごく大変で…。待ち時間も診察時間も、結構長い時間かかるんですよね。長男に「静かにして、お利口さんにしてね」と言わないといけないのが辛かったです。
大倉 その後運命的な出会いがあるそうですが。
鳥海 長男のことを思うと、保育園にお願いしてお友達と自由に遊んだ方がいいんじゃないかと思って、近所にあった菜の花保育園に相談に行きました。
大倉 現在、長崎市平山町にある菜の花こども園ですが、そこで出会いがあったんですね。
鳥海 結果的には、生後4ヶ月で連志も保育園に預けることになりました。普通に考えても早いと思います。園長先生に事情を話して、長男をお願いしたいことを伝えたら、快く引き受けてくださって「それで、この子はいつから預けるの?」と連志のことも聞かれたんです。元々、連志は預けるつもりもなかったですし、預けたらいじめられるかもしれないという思いもあって「預けるつもりはありません」と答えました。
大倉 それでも園長先生は連志さんを預けるよう勧めてきたわけですね
鳥海 園長先生がおっしゃったのが「障害がある子ほど、早く世の中に出してあげなさい。こういう子がいるってことを早く周りの人に知ってもらった方が、みんなに助けてもらえるでしょ」と。その言葉を聞いて連志をお願いしようと思いました。
大倉 障害がある子供はなかなか受け入れてくれないということも聞いたりしますが、菜の花保育園はむしろ逆だったということですね。
鳥海 預けられないっていう話もよく聞きますが、園長先生は「あなた、何でもいいから仕事探してらっしゃい」みたいな感じで、結局仕事を探して生後4ヶ月から預けることになりました。
大倉 菜の花保育園は、実は私も報道時代に取材したことがあるんです。園長先生は本当にいい意味で強引な方で、でもすごく愛にあふれていて優しい方ですね。ということで晴れて連志さんは、お兄さんと一緒に入園されたわけです。その菜の花こども園ですが、やはりそういう園長先生のお考えですから、様々な障害のある子どもたちが通っていたんですよね。
鳥海 当時連志が入園した時にも、ダウン症の子、脳性麻痺で体に麻痺がある子、身体的な障害がある子もいました。
~保育園時代の連志さんの動画視聴~
大倉 上手に足と手、体全体を使っていますね。膝から下がない状態ですが運動神経はさすがにいいですね。
鳥海 3歳で膝から下を切断する手術をしました。3歳の時には腹筋が割れて5歳くらいではバキバキでしたね。
大倉 周りの友達はどうだったんですか。
鳥海 4ヶ月から保育園にいましたので、友達の中の一人という感じで、「これが連志」って思っていた感じです。
大倉 障害があるとかないとか、関係ないということですね。この頃の性格はどうだったんですか。
鳥海 意外と平和主義で、お友達が喧嘩したりすると仲裁に入って「男の子とも女の子とも仲良しなんですよ」という話を担任の先生から聞いていました。ただ負けず嫌いはこの頃からありました。
大倉 本当に活発な幼少期だったのがよく分かりますね。
鳥海 はい、とにかく周りの子がやることは何でもやりたがる子でした。
大倉 そんな由理江さんは、保育園の頃、連志さんに対して、大切にしていたある思いがあったそうですが、どんなことか教えてください。
鳥海 はい。いろんなことに挑戦をしていく中で、連志に伝えていたことがあって、「連志とお母さんは体が違うから、連志が何ができるのかできないのか、お母さんには分からないんだよと言ってました。だから、まず何でも自分でやってみる。できたら上等!できなかったらできる方法を考えて、もう一回やってね」ということを伝えていました。
大倉 確かにお母さんと連志さんは体が違います。言えば、お母さんは五体満足。お母さんは君のことは分からないんだよということは、「突き放してる」っていうことにはならないんですか。
鳥海 私の中で「突き放す」という感覚は全くなくて、自分の子供が何がどこまでできるかなんて、親でもわからないと思うんですよね。実際に私と連志では、手の指の数も違いますし足の状態も違うから、連志の体の使い方が私には全く分からなくて。だから「連志の体のことは連志じゃないと分からないんだよ。何でもやってみて、自分で判断してね」ということを伝えたかったのかなと思います
大倉 いくら優しい言葉かけをしても、結局本当の連志君のことは分からない。ではなぜそんなに、何でも自分でやらせようとしていたんでしょうか。
なぜ自分でやらせようとしていたのか?
由理江さんには、こんな思いがあったそうです。
できることできないことを自分で判断できるように
「連志を育てることは、私にとって手探りの状態で、1歳になる前までは「みんなができるようなお座りやはいはいをこの子はできるのかな」とそれすら分からなかったんです。
でも成長とともに一つ一つできるようになっていきました。
とにかく何をするにしても、連志が自分でやって判断してもらうしかなかったんです。」
自分の体の使い方や限界も自分で分かるように
「小さい頃は遊びの中で体の使い方や判断する力を身に付けていくと思います。
怪我をしながらでもいろんなことに挑戦をすることは、自分の体がどれだけ使えるのか、動けるのか理解して、最終的には自分の体を守るということに繋がるんじゃないかなと思っていました。」
自分流のやり方を自分で見つけられる
「周りの子と体が違うわけですから、みんなと同じやり方ではできないことも当然あります。
みんなと同じやり方じゃなくていいので、自分流のやり方を自分で見つけられるようになってもらいたいと思っていました。」
どうしてもできない時は自分で先生に伝えて
「できないことがあってもいいと思うんです。
ただその時に『手伝ってください』と自分の口で伝えられるようになってもらいたいと思っていました。
社会に出て、例えば車いすを使っている時に手伝ってくださいと誰かに声をかけられるか。
その一言が言えるかどうかは、将来連志が自立して生活をしていく上ではとても大切なことだと考えていました。」
~・~・~・~・~・
大倉 連志さんは具体的にできないことをどうやって克服していたんでしょう。
鳥海 箸の持ち方、鉛筆の握り方、何一つ教えてないんですよ。器用なので裁縫も包丁もできますし、折り紙とかもすごく得意なんですけど、やり方は教えていません。自分でやって出来るようになりました。とにかく何をするにしても本人に任せていました。
大倉 由理江さんは見守っていたっていうことですね。
鳥海 何でも自分でやっていました。連志が弱音をはいた記憶はないです。本人のやりたいっていう気持ちが一番大きかったのと、私の方はやらせたいという想いですよね。
大倉 その結果、ほとんどのことができるようになって小学校に入学した連志さんですが、運動や生活面でどんどん磨きがかかっていったそうですね。
鳥海 小学生になっても体を動かすことが大好きで、夏は海に泳ぎに行って、冬はスノボをやっていました。乗馬も2~3年ぐらいやってましたし、よさこいチームにも入って佐世保のお祭りに出たりしていました。
車椅子バスケとの出会い できないことにメラメラ!
大倉 バスケットボールに出会ったのが中学1年生。どんな出会いだったんでしょうか。
鳥海 当時、車椅子バスケットボールの審判をされてる方がいて、見学に来ない?と声をかけてもらって、中学1年の時、社会人の車椅子バスケットボールチームに所属しました。
大倉 連志さんはどうでしたか?
鳥海 パスが飛ばないとかドリブルができないとか、指が2本しかない方の左手ではドリブルもボールキャッチもできないので「できないことが多すぎて楽しかった」と、連志は言ってました。みんなができることを自分ができないっていうところに多分メラメラするものがあって。一緒に練習している方の中には連志からするとおじいちゃんくらいの年齢の方もいらっしゃったんですが、そのおじいちゃん先輩にもかなわないんですよ。そういうのが悔しくて、がんばりたいと思ったんだと思います。今までは健常者がすることを連志がやろうとするだけで「すごいね、えらいね」と声をかけられることが多かったんです。でも、車椅子バスケットボールはできなかったら試合に出してもらえないんです。一人の選手として評価をしてもらえることが凄く嬉しかったですね。
主な成績
- 大島中学2年 西日本代表
- 明誠高校1年 日本代表強化指定選手
- 大崎高校2年 日本代表公式戦デビュー
- 大崎高校3年 リオパラリンピック出場(日本選手団の中で最年少の17歳7ヶ月)
大倉 この中学高校時代、振り返って何か記憶にありますか?
鳥海 チーム練習、個人練習、国内外の遠征合宿と、毎日毎日バスケでした。
大倉 こういった一つ一つの実績が、今の連志さんを作り上げたと言えますね。あとはやっぱり障害のせいにしてこなかったという教育方針もあるんじゃないかなと思うんですね。
鳥海 障害はありますが、やり方次第で何でもできると思っていました。私も連志も「障害があるからできない」と思ったことはないですね。今思うと、強気な親子だなと思います。
鳥海家 3つのルール
鳥海家には3つのルールがあったそうです。
「やる前からできないと言わない」
障害があるので、できるかできないかわからないが、とにかくまずやってみる!
できなかった場合は、できる方法を考えてやりなさいと伝えていました。
結局できるようになるまでやりなさいということなんですが、やる前から「無理」みたいなことは絶対に許さなかったということです。
「喧嘩は腕だけ」
長男と連志は年子なので、取っ組み合いの喧嘩はしょっちゅうでした。
鼻血は出るし、口の中を切って血は出るし。ウチにはケンカのルールがあって連志が足がないのでキックは禁止。ケンカは腕だけでやるってルールを作っていました。
私も喧嘩を止めないで見ていたので、それが流血の原因かなとちょっと思います。
私の個人的な考えですが、男の子なんである程度発散させた方がいいかなと思っていたのと、殴るのも殴られるのも両方の痛みを知っておいた方がいいと思っていました。
「100%信じる」
子供のことを100%信じる。
例えば子供が万引きをしたとします。
僕はしてないって言うんだったらその言葉を信じてお店の人にだって警察の人にだってうちの子はしてませんて言うし、もししたんだったらお母さんも一緒に謝る。
お母さんは100%あなたの味方だし、100%あなたのことを信じてるから嘘をつかないでちゃんと本当のことを言ってね、と伝えていました。
性格はバスケと私生活では真逆
大倉 ひと言で、連志さんの性格って、どうなんですか?
鳥海 本当にすごいマイペースで、何でも遅いです。ご飯を食べるのが遅い、動きが遅い。連志の行動が遅いっていうのは家族みんな知ってることなんです。うちの母が初めて連志の車いすバスケの試合を見た時に「あら~、あがん速く動けるとたい」と言ってました。車椅子であんなに早く動けると思っていなかったようで、とにかくおばあちゃんもびっくりしてました。多分、私生活とバスケットは真逆な感じだと思います。
良いところは、10歳離れた妹をすごく可愛がってくれます。あとは物怖じしないところですね。どんなに大きな大会だろうとそれを楽しもうとしてるところがすごいなと思います。何にでも挑戦して楽しめる人だと思います。
大倉 食生活で、心がけていたことはありますか?
鳥海 生後4か月から保育園に通っていたので、好き嫌いはほとんどなく育ったんですが、高校1年生で強化指定選手になってからは、肉、魚、野菜のバランスを考えて作るようにはしていました。でも食べる時間は、晩ごはんだと一時間くらいはかかります(笑)。いつも最後まで座ってるのが連志でした。
インクルーシブ教育をどう思いますか?
大倉 連志さんの保育園は、障害があるお子さんとそうでないお子さんが一緒に学んでいた場所でした。でも受け入れには消極的な保育園も少なくはないです。小学校や中学校に行けば、特別支援学級などがあります。障害がある人とない人が一緒に学ぶことに関して、インクルーシブ教育というのがありますが、このことについてはどんなことを考えますか。
鳥海 私自身、連志が通っていた菜の花こども園と同じ方針の保育園で育ったので、私も障害のある子と一緒に幼少期から過ごしました。身体障害者の子や知的障害の子もいましたが、一緒に過ごしていて、その子たちが特別だったかと聞かれると全然そんなことはなくて。足が悪かったので歩くのがちょっと遅い子とか、機嫌がいいときはいつも同じことを言っている子とか、そのぐらいの認識で、特別だと思ったことは私自身なかったと思います。インクルーシブ教育は思われているほど大変だとか、特別なことではないのかなと思います。
大倉 ヨーロッパでは、普通の学校と特別支援学校とが同じ敷地内に建設されていたりして、一緒に学んでいるという事例も多くあるようです。そういう意味で、日本のインクルーシブ教育についても、今後やり方を考え直す時代に入っていくのかもしれないですね。
鳥海 もちろん、支援学級も支援学校も必要だと思うんですが、障害がある子とない子と一緒に過ごす時間も、お互いのために必要なことなんじゃないかなと思います。
大倉 これまで連志くんと一緒に生活をしていて、周りから心ない言葉なんかかけられたことなどはないですか。
鳥海 ありますね。ちらちらと何度も見られたり、指を差されることはしょっちゅうありました。障害があるとわかった途端に話しかけられなくなったりとか、「障害があるのになぜ隠さないの」とか言われたこともありました。それこそインクルーシブ教育にも繋がることだと思うんですが、障害のある人と一緒に過ごした経験がないから、どう声をかけたらいいのか、どう接したらいいのかとか、それが分からないだけだと思うんです。
大倉 一緒に過ごしてきたという経験が少ないからだと思うんですよね。だから園長先生の障害がある子もない子も一緒に学ばせるという環境づくりは、本当に大事だなと思います。
連志さんにはこんな顔も! 将来は…
大倉 連志さんはファッショナブルですよね。
鳥海 雑誌でブランドの服を着させてもらったり、義足のモデルをさせてもらったり、ランウェイを歩かせてもらった経験もあります。洋服は大好きですね。ファッションをきっかけに、車椅子バスケットやパラスポーツにも少しでも関心を持ってもらえたら嬉しいなと思います。
大倉 連志さんは環境問題にも興味があると聞いています。
鳥海 私の親が漁師なんです。使わなくなった漁網をリサイクルして、商品化しているところがあるらしく、使わなくなった漁網でリサイクルして作った靴を、先日おじいちゃんおばあちゃんにプレゼントしてくれました。そういう環境問題にも興味があるみたいです。
大倉 将来は車椅子バスケットプラス環境問題についても語れるコメンテーターになれるといいですね。しかもファッショナブルで(笑)。
見守る・・・そして楽しむ子育て
大倉 障害があるお子さんを育てた上で、今振り返ってどんなことが大切かなって思いますか。
鳥海 私の中では「放っとく=見守る」なんです。子どもがやっていることをちゃんと把握した上で、見守るということが大事なのかなと思います。もう一つ、今日はお母さん方がたくさん来てらっしゃるんですが、お母さん方が子育てを楽しむことも大切なのかなと思います。
大倉 子育てを楽しむ。どうせいろいろ大変なんですから、楽しんだ方がいいですよね。
鳥海 子育てって、楽しいことばかりじゃなくて、きついと思うこともたくさんあると思うんですけど、実際私が長男と次男の子育てを終えてみて思うことは、すごく楽しかったなという思いが大きくて。もう一回子育てしたいっていうぐらい、私は子育てが楽しかったですね。
大倉 その「楽しむ」プラス「100%信じる」ということも大事なのかなって思うんですよね。子供のことを信じて、由理江さんのように楽しんで、見守る、任せる。そういったことが大切なんじゃないかなとお話を伺って感じました。あと親御さん同士の横のつながりというのはやっぱり大事ですよね。
鳥海 菜の花保育園にはいろんな障害の子がいるという話をしましたが、もちろん親御さんもいらっしゃいます。連志が小学校に入る前はどこの業者さんに連絡して机と椅子を改良してもらったらいいよとか、入学前に事前に校長先生に会いに行って、介助してほしいことを具体的に伝えたらいいよとか教えてもらいました。先輩ママ達がいろいろ教えてくれたおかげで、スムーズに学校生活を始めることができました。
大倉 よさこいも人間関係が広がったんじゃないですか?
鳥海 よさこいをしていたおかげで違う学校やいろんな学年の子たちと友達になれたので、特に女の子なんかは「何かあったら私が守ってやるよ」て言ってくれて頼もしかったですね。
大倉 本当に周りのつながりがあってこそですね。
鳥海 私自身たくさんの方に手伝ってもらって子育てをしてたので、親同士のつながりや地域の方たちとのつながりはすごく大切だなと思います。
大倉 親同士、地域、PTA、それぞれとのつながりがとても大切だと思います。
連志さんから長崎の子どもたちへのメッセージ
連志さんから、長崎の子どもたちへメッセージをもらいました。
〜・〜・〜・〜・〜
皆さんこんにちは
車椅子バスケットボールプレーヤーの鳥海連志です
皆さんにお伝えしたいことは一つ
どんなことにもチャレンジし続けるということです
母が話したように
僕は子供の頃からたくさんのことにチャレンジしてきました
ドッヂボール、よさこい、スノボ、スケボー、乗馬、大人になってからも車いすバドミントン、車椅子スキー、サーフィンにもチャレンジしました
いろんなことにチャレンジして
自分の中で一番難しかった車いすバスケに一番魅力を感じました
皆さんもいろんなことにチャレンジして
楽しいと思えることを見つけてほしいし
楽しいと思えたら一生懸命やり続けてみてください
必ず応援してくれる人がいるはずです
「パラリンピックのファイナルコートに立ちたい」という夢は
最初は僕一人の夢でした
だけどいつからか僕の夢は応援してくれるみんなの夢に変わりました
本当に恵まれていると思うし、とても幸せなことだと思います
東京パラリンピックでこの夢が叶ったのは、支えてくれるみんなのおかげだなと感じました
いま僕は新たにパリパラリンピックでメダルをとるという夢に向かってチャレンジしています
皆さんもたくさんチャレンジして自分が将来やりたいことを見つけてください
あなたが夢に向かってチャレンジすることを
僕は応援しています
〜・〜・〜・〜・〜
大倉 一番難しいところにチャレンジするというのも、連志さんらしいですね
鳥海 大人になってもまだいろんなことにチャレンジしてるんだなと初めて知りました。とにかくいろんなことにチャレンジすることが好きなんでしょうね。楽しいだろうなと思います。
大倉 連志さんが自分らしく生きるっていうところが、僕はやっぱりお母さんの子育てがあったからだと思うんです。それは何かって言ったら、やっぱり100%連志さんのことを信用してあげて、その姿を見守るっていうスタンスがあって、連志さんは自由に自分らしく成長していった。障害があるないかに関わらず、子育てに関するヒントをもらった気がします。車椅子バスケに出会ってなかったら、連志さんはどんな人生を送っていたでしょうね。
鳥海 想像が付かないですよね。本人も学生の頃に「車いすバスケがなかったら、俺どうなってるんだろう」って言ってました。
大倉 今日こうやって講演会をやってみていかがでしたか。
鳥海 連志のおかげでこういう機会をいただいて、貴重な経験をさせてもらいました。ありがとうございました。